こんにちは。あいこ(@aicoinoue)です。
わたしは、現在31歳になりますが、いまだに忘れられない衝撃があります。
それは、わたしが初めてフィリピンを訪れた2007年のこと。
今日は、その時のことを記事にしたいと思います。
ボランティアのきっかけは大きな夢や目的ではなかった
わたしが大学に入ったばかりのとき、絶対にボランティアをやろう、と決めていました。
理由は中高時代にキリスト教教育の下で学び、おおくの「恵まれないこどもたち」の話を聞いていたから。
自分の目で、見てみたい。
なにか、わたしに出来ることをしてあげたい。
という気持ちからです。
高校時代のことについては、こちらの記事で紹介しています。
https://oriori1019.com/jogakuin
たまたま出会ったボランティアサークルでたまたまフィリピンに行くことに
たまたま見つけた国際ボランティアサークルに入り、
大学1年生の夏にフィリピンで海外建築ボランティアプログラム(GV:Global Village Program)に参加することに決めました。
このGV、「誰もがきちんとした家で安全に暮らせる」ことを目的とし、
健全な住居を支援するため、無利子で住宅建材費を支援し、建設にあたる労働力は極力ボランティアの支援を充てる、というもので、
住居に住む予定の家族と交流しながら、
現地の大工さんと一緒に家を建てるボランティアでした。
あまり思い入れのなかった(というかどの国にも思い入れはなかった)国ですが、
高校時代にゴミ捨て場でゴミを拾ってそれを売って暮らしているひとたちのことを学んでいたので、
知識は少しだけありました。
そのため、ボランティアの休みの日は、そういう場所を訪れたいと考えていました。
ボランティアの意味とは何か、考え続けた準備期間約3か月
行くまでの間、一緒にいく19人のサークルの仲間たちと、
・ボランティアは結局偽善ではないか
・ボランティアをしに19人がフィリピンを訪れるより、そのお金を寄付する方がよっぽど役立つのではないか
・自分たちが行くことの意味はなんだろうか
・自分たちは求められているのだろうか
など、何度も何度も話し合いを重ねました。
ここで、19人、19色のさまざまな意見を言い交し、
自分になかった色々な意見を知ることができたのはとても大きな財産になっています。
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出来る支援を考えた結果、街頭募金で呼びかけ、フィリピンの現状を知ってもらう活動をしたことも。これはいい経験だったけれど、いい方法ではなかったかもしれない。
とにかくやってみたい。自分の目で見たい。
結局、わたしのなかでは、答えが出ない部分もありましたが、
・現地に行かなければ、分からないことがたくさんあるはず。直接見聞きしたい。感じたい。
・自分に今できることはこれしかないはずだ
・とにかくやってみたい
という気持ちが強く、現地に行くことに決めました。
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フィリピンに行く前には、現地のことを知ってもらいたくて、チャリティイベントを開催し、ボランティアに行くメンバーでバンドを組んだりもしました(*^^*)
当時19歳のわたし。
私はそれまで、アメリカしか行ったことがなく、
初めての発展途上国。かなり高揚していましたし、緊張しつつ、フィリピンに向かいました。
自分の目で見たフィリピン・マニラ
実際、フィリピン・マニラに着いてみると、日本と変わらない高層ビルやショッピングモールもあるのですが、
道路は散乱したごみで汚く、
汚水は流れ、
道端や川の近くには屋台のようなぼろぼろのテント(これがスラムだった)がたくさんあり、
道行く人も、
わたしたちと身なりが変わらないような人もいれば、
当時のわたしからすると見たこともないくらい小汚く裸足で歩くぼさぼさの髪をした人もいました。
わたしは、正直、「日本より貧しい国」という色眼鏡をかけて訪れたのですが、
実際は思っていたよりもずっと豊かそうに、発展して見えました。
しかし、その中に突然、貧しい部分が表れるのです。
どちらもが共存しているのが不思議でした。
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普通の都市の河岸のようにも見えるけれど、川にはボートピープルもいて、どういう顔をしていればいいのか分からなかった
ボランティアで知った、貧困の中にさらにある格差
建築ボランティアは、平日は毎日行われました。
私たちは毎日私たちからすると安い、しかしとても綺麗で大きなホテルから、少し郊外にあるボランティア活動場所に出かけました。
活動場所には、鉄筋入りのブロック造のアパートを建てるため、
多くの居住予定者がお金を出し合い、購入した真新しい建築資材が大量に並べられていました。
私たちは毎日一日中ブロックを運び、セメントを練り、現地の大工さんと居住予定の方とともに汗を流しました。
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ブロックを上階にあげる作業は過酷だった。人口の滑車でも作ればよかったと今になって。
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一緒に作業をした現地の大工さんとは本当に仲良くなって、いつも笑いが絶えなかった
建築予定地の隣は、スラム街でした。
すぐ近くでしたが、建設予定地とスラム街の間には高いフェンスが設置されており、
互いに行き来することができませんでした。
作業の休憩時間にはフェンス越しにスラムに住む子どもたちと身振り手振りで遊んだりしていましたが、
現地のボランティアコーディネーターはいい顔をしませんでした。
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フェンス越しの子どもたちと、子どもたちに向けて得意のヨーヨーを披露するボランティア仲間
わたしたちが参加していたのは、
どうにか無利子でお金を借りれば、建築資材を購入できるぎりぎりの人たちのための住居建築ボランティア。
どうすれば、仕事を得られ、続けてお金を得ることができるか、をアドバイスもらいながら、
厳しい審査を通過したひとたち。
与えるだけで「依存」をつくるものでなく、その人の生活力自体を成長させる「自立」を促すものでした。
フェンスで区切られた先には、
そのお金も払えず、
拾ってきたような端材で作った家に住むひとたちがたくさんいて、
でも、わたしたちはその人たちのために、何も出来ていないということには疑問を感じていました。
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フェンス超しに一番よく声をかけてくれていた子。指、気を付けてね。
そんな日々を2週間ほどすごし、わたしたちのボランティア最終日を迎えることとなりました。
大きめのアパートだったため、わたしたちのボランティア作業では作業は終わらず、
後から来た別のボランティアチームに作業を引き継ぎました。
仲良くなった現地の大工さんや居住予定のおかあさんたちとちょっとしたパーティをしました。
出会ったしまったから、この子がすき、と思ったからという理由での行動
日本から、お別れの日のフェアウェルパーティのために、練習していった
日本の歌や踊りを披露していると、
フェンスの向こう側にいた子どもたちもどこかに出来たフェンスの穴から堪えきれず入ってきました。
ずっと顔見知りで毎日話していたけれど、
直接子どもたちに初めて触れ合い、とても嬉しくてたくさん笑いました。
持っていたお菓子を一緒に食べたり、
現地のこどもにあげたい、とみんなで持ってきたサッカーボールで遊んだり、
また、持ってきていた色々なおもちゃをあげたりもしました。
ハグもしました。
言葉はすべては分からないけれど、それでもとても楽しい時間を過ごしました。
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カメラが大好き。撮って撮ってとせがむ。かわいいなあ。
あれが、いろんなものを「あげる」という行為が、良かったのかな、とは未だに思うことがありますが、
その時は、一緒に毎日顔を合わせていたこどもたちに何かしてあげたい一心でした。
貧困とはなにか、生きることとはなにか、考える日々
直接見たり、聞いたり、感じたりしたことが多すぎて、
この時のことはいまだによく思い出します。
貧困とは、
支援とは、
豊かさとは、
そういうことをもんもんと考え続けたわたしのフィリピンでの生活。
ボランティアの日程を終え、最後にマニラの観光や離島でのバカンスも楽しみつつ、
街中のそこここに見られる、貧困に気づけば目がいきます。
GVでのボランティアの合間に行ったごみ山のこと
そんなフィリピン生活で、わたしが最も衝撃的だったのが、ごみ山に訪問した日のことです。
フィリピンには、当時(2007年)、ごみを分別して捨てる、という概念がありませんでした。
ゴミ箱に捨てる、という概念がようやく出てきたくらいのときで、
街中には、道路の端やちょっとしたスペースにゴミが溜まっているのは日常でした。
分別されていないゴミが、回収されて、どこにいくのか、というと、
通称「ごみ山(スモークマウンテン、というとピンとくる方も多いかもしれません)」と呼ばれる場所にすべてのあらゆるごみが一緒くたになって運ばれていき、
どんどん積まれていく一方。という状態でした。
その「ごみ山」の近くで生活し、
ごみ山で「お金に換金できるごみ」を拾い集め、それを売ることで生活しているのが「スカベンジャー」と呼ばれる人たち。
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ごみ山遠景。
最近、漫画「ワンピース」の主人公ルフィと兄たちがそういう場所で暮らしていたことで少し有名になった場所でもあります。
わたしと彼の違いはなに?
わたしたちが参加したのは、たった一日のスタディツアー。
スカベンジャーの人たちがごみ山でごみを拾う姿を見学し、
スカベンジャーがごみ以外の方法で収入を得られるように支援している団体の活動を見学し、
実際にそこで暮らしている家族にインタビューさせてもらう、というものでした。
まず、ごみ山での見学は、正直、本当に震えるくらい、
「おなじ人間」なのに、
こんなに差があっていいの?
という純粋な疑問がゾッとするくらい押し寄せてきたのを覚えています。
わたしはなにをのんきに見学をしているのだろう。と。
実際、現地で作業している人から、
「Visitor is only thinking!!!!!」
見学しにきて、考えるだけで、何もしてくれない!!!
と
言われたことを今でも覚えています。
わたしたちは、スタディツアーに参加し、現状を知り、日本に伝え、
スカベンジャーの支援をしている団体の役に少しでも立つ。と考えていましたが、
本当にそうなのか。
と。
自分でもどう手を差し伸べて良いのか分からない。
悔しいし、途方もないし、どうすればいいのか分からないし、
ぐちゃぐちゃの考えが押し寄せました。
でも、
なにかしたい、
この、知ってしまった人たち。
ブラウン管の向こうにいる人じゃなく、目の前にいるこの人たちに
なにかできることがあるのではないか。
そう考え続けていました。
フィリピンでの活動を終えて
わたしは、出会ってしまったひとたち、
すべての五感をつかい、
感じ取ったすべてのことを吸収して、日本に帰りました。
日本に帰ってから、思い出されるのは、
フィリピンで出会ったひとたちの
笑顔でした。
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楽しい大工の仲間たちにも守るべき家族がいたね
ある子は、いつか家族と一緒に暮らすのが夢、とはにかんでいた。
あるお母さんは、わたしの宝物は家族よ、と目をキラキラさせて笑顔で教えてくれた。
ある少年は、家族を守るために軍隊に入りたいと言った。
まぶしい笑顔で、
自分の大切なものを当たり前のように家族だ、という現地の人たちの暖かさがとても豊かに感じて。
わたしは、モノが豊かすぎる日本で、自分を含めたどれほどの子が宝物を家族だというだろうか、
と、
本当に大切なものを教えてもらった気持ちになりました。
たくさんのものを持っているし、衛生的で、とても頑丈な家に住むわたしたちの方が、
物質的には豊かで、支援する立場かもしれないけれど、
それでも、とても綺麗とは言えない、雨風もしのぐのに苦労する小さなバラックに住む家族の方が、
心がとても豊かであるし、教えてもらうことがたくさんある、と本当に感じたのです。
最後に
これが、わたしが現在、
「笑顔で人を癒せるひとになりたい」
「みんなのおばあちゃんになりたい」
「東南アジアからの留学生や技能実習生を受け入れるシェアハウスをつくりたい」
と言っている根源となったフィリピンでのことです。
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当時の感想文①
![](https://oriori1019.com/wp-content/uploads/2019/01/IMG_5504-768x1024.jpg)
当時の感想文②
わたしがこの時に感じた気持ちを忘れたくない。
と10年前、感想文に書いていました。
いまでも、本当にありありと感じているこの時の気持ち。
ずっとずっと忘れないと思います。
自己満足の独りよがりではなく、
それぞれのバックグラウンドを知り、考えを知り、
必要とされているものを、
その人に、そこに合った支援を、
考え続けていきたいと思っています。