カンボジア、フィリピン、台湾ハネムーン

【カンボジア】プノンペンのトゥールスレン虐殺博物館(S21)に行ってきました。

広島市西区にある、ゲストハウス縁で働いているタメ(@tame_en)です。

ぼくたちの新婚旅行(通称「ためムーン」)がついに始まりました。

3週間という日本人にしてはロングホリデーですが、終わりの始まりということで少しの寂しさを覚えます。笑

とにかく暑い

現在プノンペンの最高気温は36度!

冬の日本から来たぼくたちにとっては季節が急に逆転したため、より暑さを感じる初日でした。

2回行って2回ともお腹を下した実績のあるぼくですが(程度の差はありますが)今回は初日にして氷を避けることが不可能なスムージーを注文しちゃいました。

カンボジアでの楽しみの一つはマンゴーを食べることなのですが、マンゴー入りスムージーの誘惑に負けてしまいました(^^;

今のところ体調は大丈夫です。

「S21」へ

カンボジアの首都・プノンペンの滞在は3泊4日ですが、移動などのため実質3日間。

その初日は、トゥールスレン虐殺博物館を訪れました。

ここは次の日に行く予定にしているキリングフィールドとともに、カンボジアの歴史を理解するためには必ず訪れておく必要があると思っています。

絶対オーディオガイド付きがおすすめ!

ぼくがここに来るのは2015年以来2度目。

当時と違ったのは、日本語のオーディオガイドがあったことです!

館内の説明書きには、クメール語、英語、フランス語などしかないので、以前は内容を理解するのが非常に難しかったです。

ですが今回は迷うことなくオーディオガイド付き(大人一人8ドル、なしは5ドル)を選択しました。

※カンボジアでは、アメリカドルが出回っています。1ドルあたり約110円(2/21調べ)

結構じっくり周ったので、2時間強は滞在していました。

とにかく目を覆いたくなるようなことが行われていた

原子共産主義

ここの名前は「虐殺博物館」ということで、まさに多くの人が命を落としていった場所です。

そのように使用されていたのは1974年4月から1979年1月までのおよそ3年8か月。

ポル・ポト率いるクメール・ルージュ(政治組織の名前)による「原子共産主義」が推し進められた時代です。

Wikipediaには原子共産主義がこのように説明されています。

原始共産制のモデルは人類の初期の社会である狩猟採集社会に見られ、そこには階級支配は無く、富の余剰も作成されない。更にいくつかの原始社会では食料や衣服などの全てが共有され、「共産主義」の目標に関連した特徴が含まれている。

ポル・ポトが目指していたのは自給自足で生活すること、といえば聞こえはいいかもしれませんが、実際には国民を奴隷のように扱っていました。

この政策に対して反乱を起こす恐れのある弁護士などの専門識者や知識人、教師や学生、そしてその家族全員、更に外国人などが、強制連行されていたのです。

よく言われるのが、眼鏡をかけているだけで連行されたとのことです。

「眼鏡をかけている=勉強をしている=反逆の恐れがある」という全く訳の分からない理由です。

 

クメールルージュに支配されてからは、貨幣の廃止、銀行や学校、宗教施設など一般的に国の運営にとって必要とされているほぼすべてのものが破壊され、首都プノンペンは廃墟と化してしまいました。

元々は高校だったそう。

生還者はわずか数名

1974年4月から1979年1月までの間で、推定で12000~20000人くらいの「無実」の人たちがこの施設に強制連行されたと言われています。

またここの職員約150人も、反逆者として連行されてきた人たちでした。

ここに来るとどうなるのか?

人としての尊厳を全くもって無視した拷問が繰り返されたと言います。

  1. 質問された事にそのまま答えよ。話をそらしてはならない。
  2. 何かと口実を作って事実を隠蔽してはならない。尋問係を試す事は固く禁じる。
  3. 革命に亀裂をもたらし頓挫させようとするのは愚か者である。そのようになってはならない。
  4. 質問に対し問い返すなどして時間稼ぎをしてはならない。
  5. 自分の不道徳や革命論など語ってはならない。
  6. 電流を受けている間は一切叫ばないこと。
  7. 何もせず、静かに座って命令を待て。何も命令がなければ静かにしていろ。何か命令を受けたら、何も言わずにすぐにやれ。
  8. 自分の本当の素性を隠すためにベトナム系移民を口実に使うな。
  9. これらの規則が守れなければ何度でも何度でも電線による鞭打ちを与える。
  10. これらの規則を破った場合には10回の鞭打ちか5回の電気ショックを与える。

Wikipediaに載っていた「尋問中の保安規則」というものなのですが、オーディオガイドでも同じことが説明されていました。

元学校だったことが分かる、鉄棒のあと。これが拷問器具として使用されていたとのこと。

脱出できないように、また侵入を防ぐために執拗に有刺鉄線が張り巡らされていた。

 

以下の写真は、4つある建物の一番手前にあったものです。

建物の無機質な感じが、どこか当時の残酷さを物語っているような気が。

この中には現在も、拷問のときに使用されていたであろう器具が生々しく置いてあります。

そして、ポルポト政権が逃亡したあと最初にここを発見したベトナム軍による記録写真も置いてあります。

最後に亡くなった14名の遺体の写真です。

他に印象的だったのは、3つ目の棟です。

1~3階までは同じような造りなのですが、すべてのベランダに有刺鉄線が張られていました。

なぜかというと、自殺しようとしてもできないようにするためだったとのことです。

それを聞くと、ちょっと写真を撮る気にはなれなくて、「記憶の保管者」としてしっかり目に焼き付けることにしました。

追悼施設として

12000~20000人もの人が命を絶つこととなったこの施設で、先ほども述べた通り解放後最後に見つかった14人の遺体(もちろんそれまでで亡くなった方々のためもある)を追悼し、人類が二度と同じようなことを繰り返さないためにこの博物館は存在しています。

敷地内のおよそ真ん中にある追悼のためのモニュメント。

生還者の記憶により伝えられている

解放時の生存者は7名だったそうで、彼らは全員運営に必要な技能をもった人たちでした。

機械工、大工、彫刻家、翻訳家、エンジニアなどです。

 

数少ない生還者(12名)のうちのひとり、ヴァンナットさん(画家)の証言により、当時の拷問や生活の様子の一部が絵になって館内に飾ってあります。

その時のことを思い出すのは本当につらいことだったと思いますが、彼の勇気ある行動によって「無くされた記録」が彼の記憶と技術のおかげで現在も広く伝えられることとなっています。

広島と通ずる部分も

現在は地元の中学生や高校生たちが、過去の出来事を学ぶためにここに足を運んでいます。

そしてクメール語も合わせて11言語のオーディオガイドが用意されていることからも、世界中の旅行者が訪れていることが分かります。

ヨーロッパの人たちからしたらアウシュヴィッツ、アメリカの人なら9.11、日本人のぼくからしたら広島や長崎を連想する人がいるのではないかと思います。

ぼくは広島から来たので、修学旅行生やたくさんの外国人が訪れている広島と少し重なるように見えました。

大事なのはやはり、もうこんな悲しいこと二度と起こしてはならない!と願い、行動をすることなのではないかと考えました。

難しく考える必要はないし、原爆ドームにしてもトゥールスレンにしても負の遺産ではありますが、そこから平和について考える、そしてまずは自分の周りからできることをしていこうとそれぞれが感じられる場であってほしいと願います。

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